■東京へ。
3月。僕は東京目黒に居た。第一回目のイラスト進歩ジウム・ドリルに参加するためである。まだ春を遠く思う寒い日だった。プリントアウトした地図を片手に見知らぬ街を歩いて目的地を探す。あった。このビルだ。予定の時間より1時間早い。が、とりあえず荷物を置こうと思ってエレベーターに乗る。講義室というより、普通の会議室のような会場が目に入った。入り口に「イラスト進歩ジウム・ドリル会場」という張り紙。安堵すると同時に緊張もした。ドアノブを握る手に汗。会場には数人の男女が居た。スタッフの方々と講師の方だろうか?挨拶する。「こんにちはー・・・申し込みした榎本というものですが…」言い終わるか終わらないかのうちに「あ、まだ早いんで外で待っててください」中央に居た長身の男性から静止された。たしかに一時間前は早いよな、と思ったが、荷物を置かせてくれても・・・とも思った。廊下にはすわるところも無いので、寒風吹く外に出て缶コーヒーを飲んだ。誰もあつまってくる気配が無い。そりゃそうだ。早いんだもの。
大都会東京は和歌山生まれ和歌山育ち他府県しらずの僕にとっては地図をなめるように見ても複雑怪奇な街であって、無事会場に辿り着けるか心配だった。前日の深夜便で上京し、中野に居る古くからの友人H宅に泊めてもらった。「いつでも泊まりにこいよー」という彼の好意にその後も甘え続けることになるのだが、彼のプライベートを侵害しやしないだろうかと心配しながらなので、旧知の仲とはいえ気疲れしないと言えば嘘になるが、非常に助かったので大変感謝している。
時間が来て、再び会場に入った。長身の男性がジャイラのHさんだと分かり、挨拶と名刺の交換をした。電話でしかしらなかったが、かなりイメージと違う人だった。その太い声から勝手にゴツい人をイメージしていたのだ。
どんどん人があつまってきて、20名弱になった。この人たち全員がイラストレーターやそれを目指す志望者なのか・・・と思うと妙に緊張した。なにしろ、同業者を見るのは初めてなのだ。
ジャイラのHさん司会で講義が始まった。
「みなさんは既にイラストレーターか、それを目指されている方だと思います。受注を受けたイラストの制作はもちろん、日々の技術力向上のための勉強、現在における自分の絵のニーズの把握とその拡大、新しい描画方法の開発などは、ルーチンワークとして当たり前なのですが、このドリルではそういう視点とは違った部分のお話をしたいと思います。」
正確な文言は覚えていないが、概ねこのような趣旨の言葉を述べられたと記憶している。自分の新しいタッチの模索や、ソフトの勉強などは日々の「ルーチンワーク」の一環であって、プロならやってて「当たり前」という台詞に、衝撃を覚えた。今ならそりゃそうだと思えるが、当時の僕はまだ「絵がウマくなるための努力」だと思っていた。努力ではないのだ。プロとして業界で長く生きていくプロという道を選んだのならば、そんなことはやってて「当たり前」であり、もし、していないのだとするとそれは単なる怠惰だ、ということである。この感覚は新鮮であった。
H氏の講演は、一方的なものではなく、ドリル参加者をグループ分けにして、テーマを与えてディスカッションさせるというものだった。率直な意見交換がなされるので参加者の意識が高いのがわかる。口下手ながらも僕も意見し、有意義といえる時間が流れた。テーマは「著作権の範囲について」「表現の自由と企業の自主規制」「人権団体による表現の規制」などなど。たしかに、「新しい絵の表現の模索をしましょう」なんていう視点のセミナーではないな、と思った。あとは名刺交換の意義、ビジネス文章のマナーなど、社会的な常識も講義されたが、こちらは会社員を経験している僕には特別目新しいものではなかった。しかし一点、「最近、『お仕事募集しています』とホームページなどに書かれている方がよく居るのですが、これは個人的には賛成しません。何故なら、『仕事』は自分がするのだし、『募集』というのは、やや上から目線の言葉であるからです。つまり、自分のする『仕事』に尊敬語である『お』をつけるのは、『俺様が仕事をやってやるから、して欲しいやつは応募してこいよ』」というようなニュアンスにもとれます。企業側からすると、別にあなたの絵でなければならない、というようなことはなく、他に大勢のイラストレーターがいるわけですから、企業が個人イラストレーターに『応募』するのはおかしいと思いませんか。だから『募集』するという言葉は賛成しかねるのです」とH氏が言い、なるほどなあと深く首肯した。と、同時に自分のホームページを思い出していた。たしか、プロフィール欄に僕は、赤色の太字でこう記していた・・・。「お仕事、随時募集中です!」と。
あと、「イラストレーターはサービス業であるという意識もあったほうがいい」というようなことも言われた。これにはハッとした。以前、ある団体から、ドレッシングのシールを作りたいので野菜の絵を描いてくれと依頼されたことがあり、何度かラフのやり取りをしたあと、通常ラフはモノクロで行うのだが、先方が「これじゃイメージしづらい」というので、カラーにしたラフを数案だした。結構な手間だった。ラフは先方がどのパソコンでも一見してイメージが判るようにjpgデータにして送ることにしている。jpgデータとは、通常の画像データを不可逆圧縮し、容量の軽量化をしたデータの形式であり、デジカメ画像などでスタンダードになってから一般化した形式だ。よってこれが観れるビューアがついていないパソコンは皆無であるといって良い。ただし、圧縮していることからわかるように、画像は元のデータよりは劣化する。同じデータをjpg形式で何度も保存すると、そのたび圧縮がかけられるからかなり画質が落ちてしまうので注意が必要だ。素人が作ったwebサイトなどでそういう画像をたまに見かける。圧縮による劣化を防ごうとするなら、gif形式がよいのだが、これは最大で256色までしか使えず、単純なイラストやアイコンなどなら良いが、多彩な色を使う写真画像には向かない。このように画像データの形式はその用途による使い分けが必要なのである。
話が脱線した。そのカラーラフを見た先方が、「よし、これでいくことにしたわ。印刷所がいそいでるから、これもっていくわ」とおっしゃった。僕は「え?」と疑問に思ったが、先方が「これでいい」と満足している以上、「まあ、いいんならそれでいいか」と思っていた。メールで画像のやり取りをしていたので、Photoshopで作成したpsd形式のオリジナルデータからさらにサイズを小さくて、jpg保存したデータを渡していたのだが、相手が「それでいい」という以上、こちらから「それはまだラフで、本制作のデータはこれからpsdデータを納品いたします」と言うべきではない、と当時の僕は判断した。
が、これは完全に誤りであった。案の定、先方から「印刷屋がこのデータやったら小さなってまうってゆうとるぞ!どないなってんねん!」と強いお叱りを受けた。そのときは「あなたがラフのデータでいいとおっしゃったんでしょう」と憤慨したが、これは僕の説明が完全に不足していたのだ。もっといえば不親切であった。今なら、先方にフォローするのが当たり前だと普通に思うが、当時は「自分の勉強不足を人におしつけてくるな」とさえ思っていた。愚かだったとしみじみ思う。おかげで先方は印刷屋と一悶着し、ドレッシングシールの仕上がり日は予定日をオーバーして生産ラインに影響がでてしまったという。
当時の僕の行動には「イラストレーターはサービス業である」というような意識は皆無だったのだ。先方が画像データについての知識が明るくないのであれば、こちらからjpgとは、gifとは、psdとは、というような説明を懇切丁寧にすべきであった。先方に満足してもらうための努力は惜しんではならない。予想できるトラブルは未然に防ぐようサポートし、最後にはクライアントの満足があって初めて仕事は完遂するのだということを、僕は経験から、そしてH氏の講義から改めて学んだ。
売り込み方法についても様々なことを講義で聴き、学習した。第一線で活躍している方の体験談は本当に刺激的で、貪欲に情報を吸収した。ノートを取る手が止まらなかった。このノートは後に何度も読み返すことになるだろうな、と思った。事実、4年経過した今でも時々開いている。初心からブレているつもりは無いが、忘れていることもあって、時々思い出すのに役立っている。
H氏の講演中、刺激的な言葉はたくさんあったのだが、それをここに全て書くのも気が引ける。第一無粋だ。ただ、この言葉は書いておきたい。
「皆さんは現在、売り込みをする自信が無い、今よりもっといいものが描けるようになってから自信をもって売り込みに行きたい、と、そう考えられている方もいるかもしれません。けど、その考えは捨ててください。なぜなら、その考えをもっていてはいつまでたっても売り込みに行けないからです。まずは動いてください。結果が駄目だったら、なにが駄目だったかを考えて、また描けばいいのです」
まずは動け、という強いメッセージだった。そうだ。僕もそう思っていた。僕の絵はどこか一線で活躍するイラストレーター達にくらべれば特徴がなく、地味だ。「ここが売りです!」と強くアピールできる要素が無い・・・。そんな風に思っていた。自信がなかった。自分で満足できる作品ができてから売り込みにいこう。じゃないと恥をかく。そう思っていた。が、そんな事では駄目なのだ。そもそも「自分が満足できる作品」なんてものはいつまでたっても到達し得ないのだ。まずは失敗を恐れずに行動。恥はかけば良い。それだけ勉強になる。無駄に自分を卑下して、「自分程度の絵を売る込むだなんて・・・」などと躊躇するのは愚かしい。恥をがきたく無い一心で言い訳しているにすぎない、とH氏は言ったのだ。自分の行動力の源になるエンジンに、潤滑油が塗られた思いがした。そういえば、葛飾北斎のような歴史的巨匠でも、90歳という当時異例の高齢で亡くなる直前このような言葉を残していたではないか。「天が我にあと十年の時を、いや5年の命をあたえてくれるのなら、本当の絵描きになってみせるものを」と。
ああ、今すぐにでもファイルを持って売り込みに出かけたい、と思った。H氏はさらにこういう。
「経験が無いということはデメリットになりません。なぜなら、クライアントは常に新しいモノを求めているからです」
この言葉にはとても勇気付けられた。
そんなわけで第一回目のドリルは終了した。鼻息荒くして帰路についたのを覚えている。実はすでに取引のあるクライアントに、上京の旨を伝えて、ご挨拶に伺いたいとメールして了解を得ていた。これが東京でのはじめての売り込みとなる。新規開拓ではないが、その会社の他の部署の方と知り合い、そこから仕事が増えるかもしれない。僕はそこに期待した。
ドリルの翌日だった。僕は100円均一で買った20ポケットのクリアファイルに当時厳選した心許ない自分の作品を忍ばせ、それとわずか55x91mmの名刺だけを武器に、出版社へと向かった。正確に言うと、編集プロダクションだったのだが、当時はその辺の業界のしくみがまだよくわかっていなかった。インターネット経由でプリントアウトした地図を頼りに、飯田橋という見知らぬ駅を降りてさまよう。あった、あのビルの3階だ。僕はまず無事会社にたどり着いたことに胸をなでおろして、階段を上り、その会社のドアをノックした。
(2008/3/28)
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