■イラストレーターとしての日々の始まり。
ジャイラから初めて受けた仕事は人材センターのパンフレットのカット数十点であった。報酬はグロスで15万円プラス源泉税。源泉税とは、源泉徴収される税金のことである。源泉徴収とは、報酬や給与などの支払者が、支払額から所得税などをあらかじめ差し引いて国に納付する制度を言う。これは報酬額の10%。かなり多い。だから支払いすぎることになる。よって会社員ならば年末調整、自営業者ならば確定申告を行うことで税金納付額を調整し、還付金が帰ってくることになる。この程度のことはフリーランスになった時点で勉強して知っていた。会社員時代は全く理解していなかったから、年末調整とは、年末のボーナスくらいの意味に捉えていたが、阿呆である。支払いすぎた税金が還付されるだけの話だ。
15万円プラス源泉税、ということは、15万の10%、1万5000円が追加されて16万5000円か、というとそうではない。10%足された金額のさらに10%が源泉徴収されるので、15万円の11.1111%がプラスされることになる。つまり、1,666円がプラスされ、実質企業側の支払いは16万6666円となる。そうして1,666円が国に徴収されて、僕の受け取り金額は15万ジャストという計算だ。企業側の良心的配慮と言えるだろう。ちなみに後に知ったことであるが、企業の方針でこれを行わないところもある(結構多い)。だから、事前確認が必要だが、個人的には、もともと無くてアタリマエ、くらいに思っておけば、源泉税をプラスしてくれる(「並び数字にする」などという呼び方もある。1万円の報酬ならば、支払金額が11,111円になるからだ)という話があれば、「ラッキー♪」と思えるからである。何事もポジティブシンキングが必要なのである。
さて、その初めての仕事は3週間で終わった。その間ももちろん派遣業務をしていたから、休みは全く無かった。大学の課題もまったく出来なかった。だが、納品したときの快感といったらなかった。請求書を作成し、切手を貼って送った。胸に充実感が広まっていくのを感じた。
イラストを描いて、報酬を頂く。
イラストレーターにとって当たり前すぎるほど当たり前であるが、僕にとっては初体験である。これを実際に行えたことに対する充実感があった。
その後、和歌山に絵本を作る会があることをネットで知り、話を聞きに言って実際に絵本「おまめくん」(和歌山名産のキヌサヤエンドウをキャラクター化したお話)を出版したり、ホームページを見たという企業や個人の方からの仕事をひとつひとつこなしていった。もちろん、それだけではとても生活できるほどの収入がなかったから、毎日の派遣業務の合間を縫っての作業である。さらにその合間を縫って通信大学の課題をこなしていった。この暮らしが2年近く続き、ほんの少しづつではあるが、実績を積んでいった。
その間、いろんな出来事があった。途中までメールで打ち合わせをして、ラフのヤリトリをしていたのに、ある日完全に音信不通になってしまう人や、制作料金の話になると急に態度を変え、中には「お金の話なんかする人には仕事を頼めません!」などと意味不明なことを言うクライアントも居た。
はっきりしたことは、「クライアントによって、考え方がかなり違う」ということであった。紳士的に対等に話をしてくれるところもあれば、「絵描きなんぞ社会的地位は下の下」という意識がひしひしと伝わるところもある。
僕が思うに、「変な人」は全国津々浦々どこにでも居る。
会社員時代もわりと幅広くさまざまな会社を見てきたが、企業の大小にかかわらず「変な人」はいる。「変な企業」もまた然りだ。本当に、意見を聞いても支離滅裂だったり、辻褄が合わない希望を真顔で要求してきたり、そもそも話しが通じない人など等・・・。
会社員時代はそれでも「大切な取引先の企業様」の社員の方には快く付き合っていかなければならない。付き合う人間を、自分個人では選べない。「嫌な奴だなぁ・・・」と思っても、笑って付き合う義務がある。
しかし、フリーランスには、それが無い。
「嫌な奴だなぁ・・・」と思って、今後付き合いを遠慮したいクライアントからの仕事は、自分の判断で断ることが出来る。付き合う相手を自分で選択できる。これは会社員時代、辛い付き合いを強制され続けてきた僕には非常に魅力的に思えた。
さて、当時の僕はホームページからの依頼が80%くらいだった。さらにその90%ほどが東京の企業である。僕の仕事のプロセスは、まずメールや電話で要求を聞く。サイズ、希望仕上がり形式、イラストのタッチ、予算、1色(モノクロ)か4色(CMYKのこと。フルカラーの意)かなど、あらかじめ聞いてからラフスケッチの制作に取り掛かる。A4のコピー用紙にシャーペンで描く。無論モノクロだ。完成したものを200dpiでスキャニングして、見やすいサイズに縮小し、jpg形式に保存したデータをメールで送る。こうしてラフ納品したあとは、電話で意見を聞き、修正箇所があれば修正する。そしてまたラフ納品。クライアントの了承をいただいてから本制作に取り掛かる。本制作とは、僕の場合、ラフデータを1.2〜1.4倍に大きく印刷し、それをA4用紙にピグマのペン(0.05〜0.6)を使ってトレースする。はじめのころは清書の際はケント紙を使用していたが、現在はラフと同じコピー用紙を使っている。CG処理する際、違いがないことに気づいたからである。そうして完成した原稿を高解像度350dpiでスキャニングする。PhotoshopやPainterを使用して微調整をした後、着色。完成したpsdデータを相手がwindowsユーザーならばzip形式、macユーザーならばsit形式などで圧縮をかけ、FTPソフトを使用してホームページ用サーバーにアップロードする。後はそのデータに直接アクセスできるURLをメールで連絡し、納品完了である。クライアントはそのURLをクリックするだけでいい。自動的にダウンロードが始まる仕組みだ。
専門用語が多いのでわかりづらいかもしれないが、要約すると、紙に描いたアナログ原稿をPCに取り入れてデジタル化し、メールで納品しているということだ。
つまり、全国どこにいてもPCがあれば作業可能なのである。実に便利な時代になった。心からそう思う。
だから関西の過疎化が進む地方都市、和歌山に居を構えながらも、日本の中心、東京の企業の仕事を請け負うことが出来たのである。
電話の声や、メールの名前しかしらない担当者が自然、増えた。一度東京に行って挨拶周りをせねば・・・と考えるようになった。しかし、東京は遠い。なかなか腰が上がらない。2004年当時の僕の感覚では、「ふらんすへ行きたしと思へども ふらんすはあまりに遠し」と書いた萩原朔太郎の感覚に近かった。大げさではない。貧しく、暴れ者の父親を持つ家庭に育った僕は、「旅行」など生まれてこの方したことが無いのである。社会人になってからも、食べていくのが本当にやっとであった。
話はそれるが、当時の僕は通勤時間が勿体無いという理由で、大阪のCADオペレーターの仕事の契約更新を止め、地元和歌山のテキスタイルの画像処理業務に派遣先を変えていた。この企業は工場がメインなのだが、勤め始めて驚くことだらけであった。仕事が楽すぎる。工場の作業員もなんだか作業が悠長だ。完全週休二日制だし、それでいて時給はそこそこよかった。1日8時間の仕事が終わっても全く疲れていなかった。僕が思うに、その会社が特別楽だったのではないように思う。僕が高校を卒業して初めて勤めたあの家具製造会社が、あまりにも激務だったのだ。そして低賃金。最初にそれを経験したから、あとが楽に思えてしょうがない。
ある金曜日の退社時に派遣先の人間から、「お前、これからデートか」などと揶揄されたことがあった。僕はちょうどこの金曜日の夜と土日の二連休で今請け負ってるイラストをあれはここまで進めよう、あれは納品できる、などと考えていたところであったから、「いえ、これから家で仕事です」と言ったら、「ええ?!お前まだ仕事すんのか!」と驚かれた。
そういえば、年始に風邪を引いて1日寝込んだ以外、全く休みなんて無いな、と思った。
が、別に不満は無い。自分で選んだ道なのだ。まだその道だけで生活できない自身の未熟さが歯がゆくもあるが、着実に一歩づつ進んでいる実感がある。100%イラストだけで稼いで家族を養い、月一度か二度は母親を連れて外食したり、祖母も連れてドライブしたりする生活が送れる日が来るまでは、休みなど、むしろ無くていい。そう思った。
会社を辞めたころは本当にギリギリの生活であったが、このころになると少し余裕がでてきていた。一度は身内のトラブルがあり、大きく落ち込んだがそれも巻き返しに成功した。一時はアルコールを摂取するのも、格安焼酎「大樹氷」などに頼っていたくらいだが、今では仕事終わりに発泡酒を二三本あけることができる。大体、夜12時を回ったら晩酌タイムというような生活サイクルが出来上がっていた。深夜番組を見ながらあたりめをさぐる。こんなこと言ったら笑われるかもしれないが、至福の時だったりする。
が、当時まだイラスト制作で得られる収入よりも派遣業務のほうが2倍くらい多かった。はっきり言ってたいして稼げていないのだ。生活のための仕事に一日の大半を割かれ、ほとんど夜しかイラスト業務を行っていないのに、晩酌タイムで至福の時などと言ってる場合ではない。この収入のシェアを逆転させ、いつか近い未来、イラストのみで生活するのだ。この事業拡大のために東京への売り込みの必要性を深く感じていた。しかし、嗚呼、東京、汝はなにゆえかくも遠き地に在る・・・。
そんな時、一通のメールが来た。ジャイラからであった。「第二回イラスト進歩ジウム・ドリル」があるので参加メンバーを募集するというのである。このセミナーの概要はイラストレーターとして立ち上がったばかりの若手に対して、プロのイラストレーターや編集者が、業界の話や経営の話を聞かせてくれるというものらしい。会場は東京23区内。ほぼ毎月1回あり、8ヶ月で6回。時間は10:00〜17:00。休憩1時間。参加費用9,000円。
9,000円!?
目を疑った。安くないか?いや疑問ではなく、実際安い。1回あたりほとんど丸1日の講義を受けれてたった1,500円ではないか。
プロで第一線で活躍しているイラストレーターからアドバイスを聞けて且つ同じ夢、目標を持てる仲間に出会える場が、ここにある。毎月東京まで足を運ぶのは大変そうだが、もともと東京に売り込みの必要を強く強く感じていたのだ。なかなか腰が重い僕には、ちょうどいい機会ではないか。
飛行機代などの交通費や、諸費用の計算をして、なんとか今の収入で捻出できることがわかった翌日、「参加します。」とメールを返した。
先の見えない生活に不安と焦燥を抱いていた2004年の暮れの話である。
(2007/08/1)
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