よしたかエッセイ 第一章                          よしたか


■夢に向かうまで。

「イラストレーターになる!」

と、決めたのは高校生のころだったと記憶している。
小・中学生のころは「漫画家になる」だった。でも別にストーリーを考えたりコマ割や台詞回しに興味があるわけではなく、単純に絵を描きたいだけであった。まだ「イラストレーター」という言葉を知らなかったから「漫画家」と言っていたのだろう。つまり、絵を描いて暮らす、というのは物心ついたころからの夢だった。

絵を描くのが楽しくてしょうがなかった。子供のころ、テレビ番組を見た記憶がほとんど無い。M78星雲から来た宇宙人も、数人で1体の敵を倒す卑怯な戦隊ヒーローも、昆虫ライダーも何も知らない。今思えば、皆がテレビを見ている時間を全て絵に費やしていたのだろうと思う。別に大作を時間かけて描くというようなものではなく、当時「らくがき帳」と呼ばれたB5サイズの普通紙におもいつくまま落書きしていただけなのだが、兎に角何か描いていた。同級生がクラスでテレビの話題をすれば全くついて行けず、クラスメイトからはある種の顰蹙を買い、バツの悪い思いをしていたが、図画工作の時間が来るや水を得た魚のように活動し、その時間の中だけはクラスメイトから一目置かれていた。イラストレーターで、こういう経験をお持ちの方は多いのではないだろうか。

白い紙に「意味は無い」が、鉛筆を走らせて図画が描かれると「意味のあるもの」に変化する。そこに命が宿る、世界が生まれる。つまり、「絵を描く」という行為はその白い紙の中に世界を作り出す「造物主」になれるということでもある。子供のころの僕が絵を好きな理由を大まかに二つ上げるならば、「みんなから上手と褒めてもらえるのが嬉しい」という単純な虚栄心と、「造物主、つまり神になれる」という恍惚感を子供心ながら味わっていたのだろうと思う。

クラスでは数人、絵を描く仲間が居たが、中学になると一気に減った。みんな勉強し始めて時間がなくなったということもあるが、絵を描くことに興味を無くした奴が殆どだったように思う。「ここで辞めた奴らがまた描き出すとは思えない・・・」そう思うと非常に寂しい思いがした。僕はまだ、白い紙を前にすると無限に広がる世界とその恍惚感の虜であったから、絵を描くことは一生続けていくし、そのためにはこの気持ちを持ち続けなければならないという思いがあった。

高校に入って、やや本格的に情熱を持って絵を描いている奴らと数人出会ったけれども、悲しいかな3年の間にその情熱も弱まり、卒業のころには全然残っていなかった。卒業を前に「漫画家になるんやろ?そろそろ本格的に動こうぜ!」と語ったが、「あー・・・漫画家な・・・なれたらなるよ」という友人の気の無い返事に僕は憤慨した。「なれたらなるよって・・・そんなんでなれる訳あるかい!」初めて絵に情熱を持っていた仲間だっただけに失望感が強かった。

それから、すぐに会社員になった僕は、ライバルと呼べる友人も居らず、供に夢を語り合う仲間も居ない状態で、「イラストレーターを目指している」という言葉もどこか虚しく響くようになり、自然、口を閉ざすようになっていった。

家族も僕が絵を描き続けていたことなど知らなかったと思う。
描いた絵はすぐ引き出しにしまった。

あまり内輪の恥を晒すのもどうかと思うが、中・高校のころは家庭が非常に荒れていた時代であった。家庭が、というよりウチの場合は父親が、である。酒を飲んではモノを壊す、飲酒運転で交通事故を何度も何度も何度も起こす、八つ当たりにペットを殺す、母を殴る、ガラスを割る。家具を壊す。まあ、ロクでもなかった。
そんな状態だったので早く母親を連れて家を出たかった。そのために大学など行って悠長に学生などしてる場合ではなかった。なによりウチは非常に貧乏であった。当時父親が作った借金は、今なお僕が支払っているほどだ。
高校の先生が「そうかぁ・・・お前就職すんのか・・・もったいないなぁ」などと言って大学や専門学校などのパンフレットを引き出しに閉まっていたのを思い出す。選択肢は無かった。これでいいのだと思っていた。

とにかく、今すぐ絵で食べていけるような実力は無い。しかしながら少しは何かクリエイトする職業に携わっていたい。そんな思いから家具の製作工場に就職し、設計業務をすることになった。会社というところは新入社員に研修期間があってしかるべきだと思うが、そこはロクな教育も施されなかったのでCADを見よう見まねで覚えて、休日は図書館に行って独学し、なんとか業務をこなしていた。恐ろしく忙しい職場で、工場内作業などもあり、油まみれになりながら10〜14時間の労働に精を出した。残業手当は20時間以上は無し。週休完全1日制。初めてもらった給料は11万3000円であった。総務の係長に「君はこれでも工員より2000円高いんだよ」と言われた。世間の常識をなにも知らない18歳の僕は「こういうものなのか」と思いながら働いた。1年働いて昇給の日が来た。基本給で3000円のアップだった。例年通りだと言う。「10年働いてやっと3万あがるのか」とぼんやり考えていた。時給に換算したら地方自治体が定める最低労働賃金よりも大きく下回っていると気づいたのは数年経ってからだった。我ながら阿呆だと思う。

しかし、地方の工場の状況は、当時得てしてそういうものだったと言う。入社したのが95年。バブル崩壊後の不景気真っ盛りでどこも経営が苦しかったのだ。

ちょっと信じられないが、その会社で7年半居た。

辞める少し前、脳梗塞で寝たきりになり、僕が20歳のころから扶養していた父が死んだ。
借金と売るに売れない小さな一軒屋が残った。

絵はずっと描いていた。ある日無償に露出したくなり、社内報などで4コマ漫画を連載したり、カットを描いたりしていた。もちろん無償で。自分の描いた絵を人に見せたくなった。ちょうどそのころ、(98年だったと記憶しているが)インターネットに出会った。最初はなにがなにやら訳がわからず、次第にヤフーを使って掲示板みたり、メールを使って感動したり、世界中のサイトを見たり、やがてはあんな単語やこんな単語であんなサイトやこんなサイトを見るようになって、案の定罠に嵌ってブラウザを壊されたりしていた。多くの野郎どもがそうであったように、僕も経験から自己防衛能力を高めて行ったように思う。何事も経験だ。うん。

そんな話はさておき、ある日本屋をぶらついていたとき、なにげなく目に入ってきた雑誌に、「君もつくろう!簡単ホームページ」とかなんとか言うのがあった。「ホームページって簡単に作れるものなのか?」と半信半疑で手にとって見てみたら、どうやらホームページを形成するhtmlというファイルはワードを使って簡単に作れるらしいと描かれてある。さっそく購入して家のPCで試してみた。
初心者に親切な雑誌で、無料ホームページスペース「ジオシティーズ」の登録方法や、画像の形式(jpg、gif、pngなど)のそれぞれの違いなども説明されており、なんと一日でホームページを立ち上げてしまった。(現在のYoshitaka roomがそれである)

PCで絵を描くことはまだ当時できておらず、紙に描いたものをスキャンする程度だったが、次第に覚えていった。Photoshopを初めて手に入れた時は、まったくわけがわからなかったが、Howtoサイトなどを参考に、少しずつ少しずつ覚えていった。中でもPaintrとの出会いは衝撃的であった。PCで水彩タッチに色を塗れるなどとは、中学生時代、趣味でMSX(ファミコンと同じ8ビットPC)でお絵かきしていた僕には想像もできなかった。(MSXは最大32色だった)

ホームページに描いた絵をどんどん公開していった。高校卒業以来、描いた絵を引き出しに閉まってばかりいた僕には、その行為がとても新鮮だった。なにより嬉しかったのはBBSなどのコミュニティサイトで絵の肯定的な感想をもらえることだった。封印されていた「絵を描く喜び」の一つがここに開放される思いがした。

「自分は、人に何かを与えられる絵を描くことができる」

こう確信した僕は、幼少の頃からの夢へと一歩踏み出す決心をした。ちょうどそのころ、作った家具が日本産業デザイン振興会が主催するグッドデザイン賞を受賞した。7年間やってきたことが認められたような気がした。職場の仲間達は驚くほど淡白で、別に褒められもしなかったけれど、もうこの会社ですることは十分にした・・・という気分になり、僕は辞表を書いた。退職金は18万円だった。

「明日からいよいよイラストレーターを目指し始めるのだ!」

会社を辞めた日の夜、毛布に包まりながらその期待感とその恐怖に震えていた。
「ちゃんと食べていけるのだろうか?母親と祖母をキチンと養っていけるのだろうか?」
2002年10月、25歳の秋だった。

                                           (2008/2/2)

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