よしたかエッセイ 〜地方でなんとかやってます〜      よしたか


■夢に向かうまで。

「イラストレーターになる!」

と、決めたのは高校生のころだったと記憶している。
小・中学生のころは「漫画家になる」だった。でも別にストーリーを考えたりコマ割や台詞回しに興味があるわけではなく、単純に絵を描きたいだけであった。まだ「イラストレーター」という言葉を知らなかったから「漫画家」と言っていたのだろう。つまり、絵を描いて暮らす、というのは物心ついたころからの夢だった。

絵を描くのが楽しくてしょうがなかった。子供のころ、テレビ番組を見た記憶がほとんど無い。M78星雲から来た宇宙人も、数人で1体の敵を倒す卑怯な戦隊ヒーローも、昆虫ライダーも何も知らない。皆がテレビを見ている時間を全て絵に費やしていたのだ。別に大作を時間かけて描くというようなものではなく、当時「らくがき帳」と呼ばれたB5サイズの普通紙におもいつくまま落書きしていただけなのだが、兎に角何か書いていた。同級生がクラスでテレビの話題をすれば全くついて行けず、クラスメイトからはある種の顰蹙を買い、バツの悪い思いをしていたが、図画工作の時間が来るや水を得た魚のように活動し、その時間の中だけはクラスメイトから一目置かれていた。イラストレーターで、こういう経験をお持ちの方は多いのではないだろうか。

白い紙に「意味は無い」が、鉛筆を走らせて図画が描かれると「意味のあるもの」に変化する。そこに命が宿る、世界が生まれる。つまり、「絵を描く」という行為はその白い紙の中に世界を作り出す「造物主」になれるということでもある。子供のころの僕が絵を好きな理由を大まかに二つ上げるならば、「みんなから上手と褒めてもらえるのが嬉しい」という単純な虚栄心と、「造物主、つまり神になれる」という恍惚感を子供心ながら味わっていたのだろうと思われる。

クラスでは数人、絵を描く仲間が居たが、中学になると一気に減った。みんな勉強し始めて時間がなくなったということもあるが、興味が無くなった奴が殆どだったように思う。「ここで辞めた奴らがまた描き出すとは思えない・・・」そう思うと非常に寂しい思いがした。僕はまだ、白い紙を前にすると無限に広がる世界とその恍惚感の虜であったから、絵を描くことは一生続けていくし、そのためにはこの気持ちを持ち続けなければならないという思いがあった。

高校に入って、やや本格的に情熱を持って絵を描いている奴らと数人出会ったけれども、悲しいかな3年の間にその情熱も弱まり、卒業のころには全然残っていなかった。卒業を前に「漫画家になるんやろ?そろそろ本格的に動こうぜ!」と語ったが、「あー・・・漫画家な・・・なれたらなるよ」という友人の気の無い返事に僕は憤慨した。「なれたらなるよって・・・そんなんでなれる訳あるかい!」初めて絵に情熱を持っていた仲間だっただけに失望感が強かった。

それから、すぐに会社員になった僕は、ライバルと呼べる友人も居らず、供に夢を語り合う仲間も居ない状態で、「イラストレーターを目指している」という言葉もどこか虚しく響くようになり、自然、口を閉ざすようになっていった。

家族も僕が絵を描き続けていたことなど知らなかったと思う。
描いた絵はすぐ引き出しにしまった。

あまり内輪の恥を晒すのもどうかと思うが、中・高校のころは家庭が非常に荒れていた時代であった。家庭が、というよりウチの場合は父親が、である。酒を飲んではモノを壊す、飲酒運転で交通事故を何度も何度も起こす、八つ当たりにペットを殺す、母を殴る、ガラスを割る。まあ、ロクでもなかった。
そんな状態だったので早く母親を連れて家を出たかった。そのために大学など行って悠長に学生などしてる場合ではなかった。なによりウチは非常に貧乏であった。当時父親が作った借金は、今なお僕が支払っているほどだ。
高校の先生が「そうかぁ・・・お前就職すんのか・・・もったいないなぁ」などと言って大学や専門学校などのパンフレットを引き出しに閉まっていたのを思い出す。選択肢は無かった。これでいいのだと思っていた。

とにかく、今すぐ絵で食べていけるような実力は無い。しかしながら少しは何かクリエイトする職業に携わっていたい。そんな思いから家具の製作工場に就職し、設計業務をすることになった。ロクな教育も施されなかったのでCADを見よう見まねで覚えて、休日は図書館に行って独学し、業務をこなしていた。恐ろしく忙しい職場で、工場内作業などもあり、油まみれになりながら12〜16時間の労働に精を出した。残業手当は20時間以上は無し。週休完全1日制。初めてもらった給料は11万3000円であった。総務の係長に「君はこれでも工員より2000円高いんだよ」と言われた。世間の常識をなにも知らない18歳の僕は「こういうものなのか」と思いながら働いた。1年働いて昇給の日が来た。基本給で3000円のアップだった。例年通りだと言う。「10年働いてやっと3万あがるのか」とぼんやり考えていた。時給に換算したら地方自治体が定める最低労働賃金よりも大きく下回っていると気づいたのは数年経ってからだった。我ながら阿呆だと思う。

しかし、地方の工場の状況は、当時得てしてそういうものだったと言う。入社したのが95年。バブル崩壊後の不景気真っ盛りでどこも経営が苦しかったのだ。

ちょっと信じられないが、その会社で7年半居た。

辞める少し前、脳梗塞で寝たきりになっていた父が死んだ。
借金と売るに売れない小さな一軒屋が残った。

絵はずっと描いていた。ある日無償に露出したくなり、社内報などで4コマ漫画を連載したり、カットを描いたりしていた。もちろん無償で。自分の描いた絵を人に見せたくなった。ちょうどそのころ、(98年だったと記憶しているが)インターネットに出会った。最初はなにがなにやら訳がわからず、次第にヤフーを使って掲示板みたり、メールを使って感動したり、世界中のサイトを見たり、やがてはあんな単語やこんな単語であんなサイトやこんなサイトを見るようになって、案の定罠に嵌ってブラウザを壊されたりしていた。多くの野郎どもがそうであったように、僕も経験から自己防衛能力を高めて行ったように思う。何事も経験だ。うん。

そんな話はさておき、ある日本屋をぶらついていたとき、なにげなく目に入ってきた雑誌に、「君もつくろう!簡単ホームページ」とかなんとか言うのがあった。「ホームページって簡単に作れるものなのか?」と半信半疑で手にとって見てみたら、どうやらホームページを形成するhtmlというファイルはワードを使って簡単に作れるらしいと描かれてある。さっそく購入して家のPCで試してみた。
初心者に親切な雑誌で、無料ホームページスペース「ジオシティーズ」の登録方法や、画像の形式(jpg、gif、pngなど)のそれぞれの違いなども説明されており、なんと一日でホームページを立ち上げてしまった。

PCで絵を描くことはまだ当時できておらず、紙に描いたものをスキャンする程度だったが、次第に覚えていった。Photoshopを初めて手に入れた時は、まったくわけがわからなかったが、Howtoサイトなどを参考に、少しずつ少しずつ覚えていった。中でもPaintrとの出会いは衝撃的であった。PCで水彩タッチに色をぬれるなどとは、中学生時代、趣味でMSX(ファミコンと同じ8ビットPC)でお絵かきしていた僕には想像もできなかった。(MSXは最大32色だった)

ホームページに描いた絵をどんどん公開していった。高校卒業以来、描いた絵を引き出しに閉まってばかりいた僕には、その行為がとても新鮮だった。なにより嬉しかったのはBBSなどのコミュニティサイトで絵の肯定的な感想をもらえることだった。封印されていた「絵を描く喜び」の一つがここに開放される思いがした。

「自分は人に何かを与えられる絵を描くことができるのだ」

こう確信した僕は、幼少の頃からの夢へと一歩踏み出す決心をした。ちょうどそのころ、作った家具が日本産業デザイン振興会が主催するグッドデザイン賞を受賞した。7年間やってきたことが認められたような気がした。職場の仲間達は驚くほど淡白で、別に褒められもしなかったけれど、もうこの会社ですることは十分にした・・・という気分になり、僕は辞表を書いた。退職金は18万円だった。

「明日からいよいよイラストレーターを目指し始めるのだ!」

会社を辞めた日の夜、毛布に包まりながらその期待感とその恐怖に震えていた。 2002年10月、25歳の秋だった。


■イラストレーターと名乗ってみたけれど・・・

父親が死んで障害者年金も打ち切られることになり、経済的にどん底になってしまった上に、会社を辞めた自分を待っていたのは、さらなるどん底であった。
「退職金18万?!ありえやんやろ7年もおって!」家族や周りの人間にもそう言われ、「たしかにそうだよなぁ」とは思ったが、社内規定でこうなるのだ、と言われればグウの根も出ない。会社員とはそういうものだろう。「業」に入っては「業」に従うのが「従業員」なのだから。(かといって長年サービス残業を甘んじてこなしていたのは間違っていたと反省している。なにか動くべきであった)
そんな金が今後の生活の足しになるわけもなく、不本意ながら失業手当をもらうことにした。だが、あっという間にその期間は終了した。僕はワードで作ったあからさまに素人臭いホームページをなんとかもう少しマシな見栄えにしようと、ホームページビルダーというソフトを買って試行錯誤して完成させた。イラストレーターという肩書きの名詞も作った。どこに配ったらいいのか、どういうタイミングで役にたつのかはわからないが、とりあえず作ってみた。イラストレーターやデザイナーには国家資格などないのだから、名乗って違法ということはあるまい。そう思った。そしてそれは正解だった。


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リニューアルして少しは見れるようになったホームページを武器に、イラストレーターとして登録できるサイトを片っ端から登録した。20箇所くらい登録しただろうか。探せるところは全て探し、登録無料のところは全て登録した。有料のところは辞めておいた。割と名の知られたところでも、「当社のイラストレーター紹介本に見開き2ページ掲載で5万円」というような商売をしているところがある。馬鹿な。と思う。僕と同じようにイラストレーターとして名乗りだしたばかりの人間はとにかく実績が欲しくて、名を世に出したくて、こういう話に乗ってしまうのかもしれない。しかし、ほんの少し考えたら分かるが、イラストレーターという商売はイラストを描いてお金をもらうことで生計を立てる商売なのである。何故イラストを掲載するのにお金を払わなくてはならないのか。むしろそういう会社には「いくらならば貴誌には掲載してもいいですよ」というべき立場なのだ。その根本的なところで誤解してはいけない、と思う。

それはさておき、とにかく登録し尽くすほどしたものの、反応があるでもなく、時間は過ぎていく。まずは生活である。僕はあらゆる派遣会社に登録した。なるべくクリエイトする職業を望んだが、都合よくあるはずもなく、僕の地元では販売系か工員か事務員という選択肢しかなかった。イラストを描きためてデザイン会社などに営業に行こう!そう考えていたのでその為の時間が欲しく、フルタイムで働くのではなく、週4日程度の勤務にしたかった。そうすると販売員という選択しかない。時給は1350円だった。一日11時から20時。休憩1時間の8時間労働。月17日勤務で176,800円である。

あれ!?
と思った。会社員時代の月給よりはるかにいいのである。人材派遣とは安定していない分、時給を高めに設定して即戦力となる労働力を集めているのだと知った。会社員時代はほぼ毎日12〜16時間労働で且つ常時忙殺されており、26日くらい働いていたのだが、もらっていたのはこれより低い。もっと世の中の相場を勉強して知り、不当な労働を強いられないためにも抗議し交渉すべきであったと思う。まったくもって馬鹿であった。

さて、そうして派遣販売員の仕事をしながらイラストを描きためる日々が始まった。生活は依然汲々としており、先の見えない不安で一杯であった。なにしろ、「イラストレーターです」と名乗ってはみたものの、まだ実績などなにも無いのである。

販売員の仕事は立ちっぱなしだったのが辛かったが、それ以外は非常に楽であった。「こんなに楽でいいの?」と思えるほどであった。会社員時代は、帰宅したらもう疲労困憊であったが、販売員は8時間働いても、なんともないのだ。疲れてない、といっていい。

作品もずいぶん溜まってきたころ、地元のデザイン会社などをwebやタウンページで探しては連絡を取り、ファイルを配ったりするようになった。はじめのころは、それはそれは緊張した。受話器を持つ手が震えた。なにしろ、なんの縁もゆかりも無い会社に、いきなり「こんな絵を描いてます!是非使ってください!」と売り込むわけだ。必要とされているところに絵を卸しにいくのではなく、「自分の絵を使えば貴社にこういうメリットがありますよ」とアピールして自己を認知してもらい、僕の描くイラストの「需要」を作り出し、そうして「供給」して満足していただける環境を創出するのが営業なのだ。まったく未知の世界であるし、とんでもなく難しい行動のように思われた。

当時、大きな仕事をするだけのキャパシティが自分に無いことを自覚していたので、とにかく地元の、どんな小さな仕事でもいいからそこから始めたかった。しかし、営業先の言葉は冷たく厳しいものであった。

「は?イラスト?いいですいいです。そーゆーの間に合ってます」
「まーこういうイラストはウチでは使わないからねぇ・・・」
「素材集で間に合ってるからいらないです」
「え?お前、コレで金とんの?」

これらは大抵、電話の会話の一部である。直接会うことは少なかった。こと「絵」に関して「絵なんぞに金なんか払えるか」という意識が露骨に見えたのが残念であった。地方和歌山では文化的な振興がまだまだ弱く、後進的なのだ。一応イラストファイルは送付するものの、ガックリ肩を落とすことが多かった。

話は前後してしまうが、2001年10月に創作物のレベルアップを図る目的で大阪芸術大学の通信教育デザイン学科に入学した。通信大学というと、なじみの薄い人もいるだろうが、僕もまったくよくわからなかった。ただ、デザインの専門教育と大学の一般教養くらいは学んでおこうと思い、少ない給料の中でもギリギリ学費が払えるくらいの額だったので、半年悩んで入学したのであった。スクーリングという年に数回ある面接授業がある意外は、送られてくる課題をひたすらこなすという地味な勉強方法であった。つまり、僕は当時、学生でもあった。

営業活動もなかなか芽が出ない。自分はこのままフリーターで終わるんじゃないだろうか・・・?そんな恐怖に苛まれていた最中、悪夢のような出来事が僕を、いや僕の一家を襲った。

悪魔というのは確かにこの世に居る。そう確信した出来事であった。

冷たいと思われるかもしれないが、僕は人に騙された人間を可哀想だとあまり思わない。騙すほうはもちろん悪だが、騙される方が馬鹿なのだ。それが金銭の問題においてをやである。「金」に関する明確で揺ぎ無い「哲学」が無いから騙されるのだ。信じるべきモノと信じるに値せぬモノとの区別が出来ない未熟さが原因なのだ。だから「私は騙された!」と声高々に主張している人間に至っては可哀想どころか不愉快さすら覚える。「私は馬鹿だ!」と言っているのと同義語なのだ。被害者面をする前に未熟な己を恥じて過ちを教訓にして成長すればよい話なのだ。ただ感情的に同情を求める姿は見ていて痛々しいだけだ。

と、それが他人ならば冷めた目で見ているだけだが、身内となるとそうはいかない。現実に洒落にならない金の問題が僕の目の前に立ちふさがった。そうして、比較的まっとうに生きていた一人の人間が目に見えて転落していく姿をこの目で見た。衝撃的な出来事であった。

要するに、そのとばっちりが飛んで、僕の貯蓄はゼロとなり、借金が残った。まともに職が無い上に借金。そしていつ回復するともいえない心の病気を患った身内を抱えることになった。

物の破壊される音、怒声、罵声。
父親が生きていた時よりも今のこの現状の方が酷く感じた。

小さいころは「地獄」とは、地面の中にあるものだと思っていたが、なんのことはない、「ここ」のことじゃねえか。

本気でそう思った。


=============ここまでが07/7/9更新分==============


だからといって、「金」のために「夢」を諦める気にはならなかった。僕はもう、夢に向かって一歩踏み出しているのだ。全然仕事がないけれど、まだ学生をしている修行中の身だけれど、一歩踏み出した以上、前に進まなければならない。眼前に立ちはだかる壁は高いが、そもそも、人生とはそういうものだ。壁が見えたからといってその度に迂回していては、目的に辿り着けるはずがない。人生に重要なのは、「金」ではない。「運」でも、「才能」でもない。
強い「意志」こそが重要なのだ。僕は、乗り越えてみせる。

派遣業務をより給料の高い職種であるCADオペレーターに変えて、一日10時間労働になった。職場が大阪になったので通勤にも時間が掛かってしまう。それでも一日必ず一度は机に向かい、絵を描く、ということにはこだわった。僕はイラストレーターなのだ。一日設計業務に追われて終わってしまうのは、おかしい。短い時間でも「絵を描く」ためにこの一日があったと思いたい。

その日々が始まったしばらくしたころ、一本の電話があった。

「ジャイラのHですけど、榎本よしたかさんはいらっしゃいますか?」

ジャイラとは、日本イラストレーション協会のことである。聞き覚えがあった。ジャイラが運営するネットでのイラストレーターの登録サイト「イラスト進歩ジウム」に、作品とプロフィールを登録したことがある。もちろん仕事獲得と自己アピールのためだ。同様の登録サイトにも20件くらい登録した。そのひとつであるジャイラからの電話があったのである。緊張した。

「はい、私が榎本よしたかです。お世話になっております。」

「お世話になります。今回榎本さんのプロフィールを見られた方から仕事の依頼をしたいという話がきてるのですが、引き受けられますか?」

「はい!是非!」

来た!ついに企業から僕のイラストを使いたいという依頼が来た!鼓動が高まった。僕の描いたイラストを、必要としてくれる企業があるのだ。それが純粋に嬉しかった。沸々と身体にやる気がみなぎっていくのを感じた。

イラストレーターを名乗って、3ヶ月が経過した日の出来事であった。

=============ここまでが07/7/30更新分==============


■イラストレーターとしての日々の始まり。

ジャイラから初めて受けた仕事は人材センターのパンフレットのカット数十点であった。報酬はグロスで15万円プラス源泉税。源泉税とは、源泉徴収される税金のことである。源泉徴収とは、報酬や給与などの支払者が、支払額から所得税などをあらかじめ差し引いて国に納付する制度を言う。これは報酬額の10%。かなり多い。だから支払いすぎることになる。よって会社員ならば年末調整、自営業者ならば確定申告を行うことで税金納付額を調整し、還付金が帰ってくることになる。この程度のことはフリーランスになった時点で勉強して知っていた。会社員時代は全く理解していなかったから、年末調整とは、年末のボーナスくらいの意味に捉えていたが、阿呆である。支払いすぎた税金が還付されるだけの話だ。

15万円プラス源泉税、ということは、15万の10%、1万5000円が追加されて16万5000円か、というとそうではない。10%足された金額のさらに10%が源泉徴収されるので、15万円の11.1111%がプラスされることになる。つまり、1,666円がプラスされ、実質企業側の支払いは16万6666円となる。そうして1,666円が国に徴収されて、僕の受け取り金額は15万ジャストという計算だ。企業側の良心的配慮と言えるだろう。ちなみに後に知ったことであるが、企業の方針でこれを行わないところもある(結構多い)。だから、事前確認が必要だが、個人的には、もともと無くてアタリマエ、くらいに思っておけば、源泉税をプラスしてくれる(「並び数字にする」などという呼び方もある。1万円の報酬ならば、支払金額が11,111円になるからだ)という話があれば、「ラッキー♪」と思えるからである。何事もポジティブシンキングが必要なのである。

さて、その初めての仕事は3週間で終わった。その間ももちろん派遣業務をしていたから、休みは全く無かった。大学の課題もまったく出来なかった。だが、納品したときの快感といったらなかった。請求書を作成し、切手を貼って送った。胸に充実感が広まっていくのを感じた。

イラストを描いて、報酬を頂く。

イラストレーターにとって当たり前すぎるほど当たり前であるが、僕にとっては初体験である。これを実際に行えたことに対する充実感であった。

その後、和歌山に絵本を作る会があることをネットで知り、話を聞きに言って実際に絵本「おまめくん」(和歌山名産のキヌサヤエンドウをキャラクター化したお話)を出版したり、ホームページを見たという企業や個人の方からの仕事をひとつひとつこなしていった。もちろん、それだけではとても生活できるほどの収入がなかったから、毎日の派遣業務の合間を縫っての作業である。さらにその合間を縫って通信大学の課題をこなしていった。この暮らしが2年近く続き、ほんの少しづつではあるが、実績を積んでいった。

その間、いろんな出来事があった。途中までメールで打ち合わせをして、ラフのヤリトリをしていたのに、ある日完全に音沙汰無しになってしまう人や、制作料金の話になると急に態度を変え、中には「お金の話なんかする人には仕事を頼めません!」などと意味不明なことを言うクライアントも居た。

はっきりしたことは、「クライアントによって、考え方がかなり違う」ということであった。紳士的に対等に話をしてくれるところもあれば、「絵描きなんぞ位は下の下」という意識がひしひしと伝わるところもある。

僕が思うに、「変な人」は全国津々浦々どこにでも居る。

会社員時代もわりと幅広くさまざまな会社を見てきたが、企業の大小にかかわらず「変な人」はいる。「変な企業」もまた然りだ。本当に、意見を聞いても支離滅裂だったり、辻褄が合わない希望を真顔で要求してきたり、そもそも話しが通じない人など等・・・。
会社員時代はそれでも「大切な取引先の企業様」の社員の方には快く付き合っていかなければならない。付き合う人間を、自分個人では選べない。「嫌な奴だなぁ・・・」と思っても、笑って付き合う義務がある。

しかし、フリーランスには、それが無い。

「嫌な奴だなぁ・・・」と思って、今後付き合いを遠慮したいクライアントからの仕事は、自分の判断で断ることが出来る。付き合う相手を自分で選択できる。これは会社員時代、辛い付き合いを強制され続けてきた僕には非常に魅力的に思えた。

さて、当時の僕はホームページからの依頼が80%くらいだった。さらにその90%ほどが東京の企業である。僕の仕事のプロセスは、まずメールや電話で要求を聞く。サイズ、希望仕上がり形式、イラストのタッチ、予算、1色(モノクロ)か4色(CMYKのこと。フルカラーの意)かなど、あらかじめ聞いてからラフスケッチの制作に取り掛かる。A4のコピー用紙にシャーペンで描く。無論モノクロだ。完成したものを200dpiでスキャニングして、見やすいサイズに縮小し、jpg形式に保存したデータをメールで送る。こうしてラフ納品したあとは、電話で意見を聞き、修正箇所があれば修正する。そしてまたラフ納品。クライアントの了承をいただいてから本制作に取り掛かる。本制作とは、僕の場合、ラフデータを1.2〜1.4倍に大きく印刷し、それをA4用紙にピグマのペン(0.05〜0.6)を使ってトレースする。はじめのころは清書の際はケント紙を使用していたが、現在はラフと同じコピー用紙を使っている。CG処理する際、違いがないことに気づいたからである。そうして完成した原稿を高解像度350dpiでスキャニングする。PhotoshopやPainterを使用して微調整をした後、着色。完成したpsdデータを相手がwindowsユーザーならばzip形式、macユーザーならばsit形式などで圧縮をかけ、FTPソフトを使用してホームページ用サーバーにアップロードする。後はそのデータに直接アクセスできるURLをメールで連絡し、納品完了である。クライアントはそのURLをクリックするだけでいい。自動的にダウンロードが始まる仕組みだ。

専門用語が多いのでわかりづらいかもしれないが、要約すると、紙に描いたアナログ原稿をPCに取り入れてデジタル化し、メールで納品しているということだ。

つまり、全国どこにいてもPCがあれば作業可能なのである。実に便利な時代になった。心からそう思う。

だから関西の過疎化が進む地方都市、和歌山に居を構えながらも、日本の中心、東京の企業の仕事を請け負うことが出来たのである。
電話の声や、メールの名前しかしらない担当者が自然、増えた。一度東京に行って挨拶周りをせねば・・・と考えるようになった。しかし、東京は遠い。なかなか腰が上がらない。2004年当時の僕の感覚では、「ふらんすへ行きたしと思へども ふらんすはあまりに遠し」と書いた萩原朔太郎の感覚に近かった。大げさではない。貧しく、暴れ者の父親を持つ家庭に育った僕は、「旅行」など生まれてこの方したことが無いのである。社会人になってからも、食べていくのが本当にやっとであった。

話はそれるが、当時の僕は通勤時間が勿体無いという理由で、大阪のCADオペレーターの仕事の契約更新を止め、地元和歌山のテキスタイルの画像処理業務に派遣先を変えていた。この企業は工場がメインなのだが、勤め始めて驚くことだらけであった。仕事が楽すぎる。工場の作業員もなんだか作業が悠長だ。完全週休二日制だし、それでいて時給はそこそこよかった。1日8時間の仕事が終わっても全く疲れていなかった。僕が思うに、その会社が特別楽だったのではないように思う。僕が高校を卒業して初めて勤めたあの家具製造会社が、あまりにも激務だったのだ。そして低賃金。最初にそれを経験したから、あとが楽に思えてしょうがない。

ある金曜日の退社時に派遣先の人間から、「お前、これからデートか」などと揶揄されたことがあった。僕はちょうどこの金曜日の夜と土日の二連休で今請け負ってるイラストをあれはここまで進めよう、あれは納品できる、などと考えていたところであったから、「いえ、これから家で仕事です」と言ったら、「ええ?!お前まだ仕事すんのか!」と驚かれた。

そういえば、年始に風邪を引いて1日寝込んだ以外、全く休みなんて無いな、と思った。

が、別に不満は無い。自分で選んだ道なのだ。まだその道だけで生活できない自身の未熟さが歯がゆくもあるが、着実に一歩づつ進んでいる実感がある。100%イラストだけで稼いで家族を養い、月一度か二度は母親を連れて外食したり、祖母も連れてドライブしたりする生活が送れる日が来るまでは、休みなど、むしろ無くていい。そう思った。

会社を辞めたころは本当にギリギリの生活であったが、このころになると少し余裕がでてきていた。一度は身内のトラブルがあり、大きく落ち込んだがそれも巻き返しに成功した。一時はアルコールを摂取するのも、格安焼酎「大樹氷」などに頼っていたくらいだが、今では仕事終わりに発泡酒を二三本あけることができる。大体、夜12時を回ったら晩酌タイムというような生活サイクルが出来上がっていた。深夜番組を見ながらあたりめをさぐる。こんなこと言ったら笑われるかもしれないが、至福の時だったりする。

が、当時まだイラスト制作で得られる収入よりも派遣業務のほうが2倍くらい多かった。はっきり言ってたいして稼げていないのだ。生活のための仕事に一日の大半を割かれ、ほとんど夜しかイラスト業務を行っていないのに、晩酌タイムで至福の時などと言ってる場合ではない。この収入のシェアを逆転させ、いつか近い未来、イラストのみで生活するのだ。この事業拡大のために東京への売り込みの必要性を深く感じていた。しかし、嗚呼、東京、汝はなにゆえかくも遠き地に在る・・・。

そんな時、一通のメールが来た。ジャイラからであった。「第二回イラスト進歩ジウム・ドリル」があるので参加メンバーを募集するというのである。このセミナーの概要はイラストレーターとして立ち上がったばかりの若手に対して、プロのイラストレーターや編集者が、業界の話や経営の話を聞かせてくれるというものらしい。会場は東京23区内。ほぼ毎月1回あり、8ヶ月で6回。時間は10:00〜17:00。休憩1時間。参加費用9,000円。

9,000円!?

目を疑った。安くないか?いや疑問ではなく、実際安い。1回あたりほとんど丸1日の講義を受けれてたった1,500円ではないか。
プロで第一線で活躍しているイラストレーターからアドバイスを聞けて且つ同じ夢、目標を持てる仲間に出会える場が、ここにある。毎月東京まで足を運ぶのは大変そうだが、もともと東京に売り込みの必要を強く強く感じていたのだ。なかなか腰が重い僕には、ちょうどいい機会ではないか。

飛行機代などの交通費や、諸費用の計算をして、なんとか今の収入で捻出できることがわかった翌日、「参加します。」とメールを返した。

先の見えない生活に不安と焦燥を抱いていた2004年の暮れの話である。


(まだ執筆途中です)



                                       (2007/08/1)